MENU
Magazine
2023.07.18

サボってみる|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊

暑い夏が来た。今年も「未来構想キャンプ」が開かれる。第1回が2011年だから、今年で13回目になる。ぼくは、ワークショップを担当したり全体の記録をおこなったり、初回からほぼ皆勤である。COVID-19の影響下でも、開催が見送られることはなかった。2年間のオンライン開催を経て、昨年から対面での実施に戻った。続けてきたおかげで、高校生たちと出会い、一緒に半日(昨年は宿泊型だったので一泊二日)を過ごすのが、年に一度の恒例行事になっている。
ワークショップは、いわゆる「模擬授業」とは大きくちがう。直接体験こそが学びの源泉であるという考えにもとづいて、闊達に語り合い、頭も身体も動かして、現場のなかから知恵やことばを紡ぎ出す。濃密な時間が流れるのだ。今年は、キャンパスで4つ、さらにキャンパスの外でも2つ(長崎、鳥取)のワークショップが開催される予定だ。

ぼくは、「サボりワークショップ」を担当する。じつは、この企画は2020年、2021年に続く3回目となる。せっかくなので、「サボりワークショップ」について少し紹介しておこう。一般的には「サボる」ことは、あまりよくないことだと思われているはずだ。やるべきことがあるのに、よそ見をしたり気を抜いたり、「本筋」から外れるような怠惰なふるまいとして理解されている。参加者の多くは、わき目もふらずに自分の目標に向かってすすむように心がけているにちがいない。だから、「サボる」のは、きっと不本意な行動だ。
「サボりワークショップ」では、あらかじめ決められた「時間割」どおり、各時限に担当教員が授業をおこなうことになっている。これは、高校生にとって親しみのある光景だろう。参加者は、それぞれの授業において「授業を受ける生徒」の役割を演じることになる。いっぽうで、「サボる」が主題のワークショップであるから、授業中という状況からどのように抜け出すかについて考えることにもなる。つまり、「授業を受ける生徒」であると同時に「授業をサボろうとする生徒」の役割も演じなければならないのだ。

このように、複数の役割があたえられ、不思議な葛藤が組み込まれたワークショップなので、当然のことながら参加者は困惑する。ワークショップの主題が「サボる」なのだから、賢明な参加者は「サボる」ことこそが高評価をえることだと考えるかもしれない。そのままおとなしく授業を聞くか、それとも授業を抜け出すか。たとえば2020年度に実施した「サボりワークショップ」の参加者は、ワークショップでの自身のふるまいをふり返りながら、つぎのような感想を述べていた。「授業自体に興味があったので受けていたけど、サボりたかった」「...授業だから、先生の準備時間のことを考えるとサボれなかった」「そもそもWS自体をサボろうかと考えていた」「サボるのが正解だと思ってそのままサボった」「途中から明らかに人数が減っていておかしいと思っていた」など、いろいろな想いでワークショップに向き合っていたようだ。
「サボりワークショップ」でどのようにふるまうかは、一人ひとりの参加者の判断に委ねられている。もちろん、唯一の正解はない。一緒にいる参加者たちのようすをうかがいながら、ときには同調的な圧力を感じながら、時間を過ごすことになる。

いうまでもなく、参加者たちを悩ませることは目的ではない。こうした設定でワークショップをおこなうことで、日常的に「あたりまえ」だと感じている授業や教室のありよう、時間の流れ方などを、あらためてとらえなおしてみたいのだ。授業中は、前を向いて座って先生の話を聞く。決められた時刻になると授業が終わり、少し休憩すると次の授業がはじまる。じつに規則的で、ムダを省くように設計された仕組みだ。ぼくたちは、そのやり方に慣れすぎている。「サボり」は、この「あたりまえ」のやり方を問いなおすきっかけとして位置づけている。

ふと窓の外に目をやったり、ノートに絵を描いたり。ささやかな「サボり」への欲求は、ごく自然に生まれてくる。「サボる」ことは、やるべきことからの逃避だと思われるかもしれない。だが、その欲求をただちに悪いこととして理解しなくてもいいはずだ。何かの目標に向かってすすんでいるとき、ぼくたちは、さまざまな「余白」をそぎ落とそうとする。その、そぎ落とされた「何か」の価値を知ろうとするのは、意味のあることだ。
なにより、「時間割」も教室も、授業のありようも、「あたりまえ」をつくって維持してきたのは、ぼくたちなのだ。そのことを実感し、これからの変化に活かすためにも、みんなで大いなる「サボり」を企ててみたい。

加藤 文俊 大学院政策・メディア研究科委員長/環境情報学部教授 教員プロフィール