この日が終わるまでは倒れるわけにはいかない。
万学博覧会、大学院入試、学会と、週末も含めて毎年ハードなスケジュールが続く11月、12月。とある日の大事な役割を終えてホッとしたのか、先週末、文字通り盛大にダウンした。いやいやわかりやすすぎるだろ、私の身体。幸いなことにインフル諸々ではないとの診断だが、酷い咳と微熱、頭がシェイクされる度に襲われる頭痛でじわじわと体力が奪われる。このご時世、こんな状態で人前に出るわけにもいかず、対面での用事はすべてキャンセル。授業もオンラインに切り換えた。こちらの都合に合わせてスケジュールを組んでいただいた皆さま、本当に申し訳ない。と、こんな調子で書いているので、まったくもって理路整然とした文面にはなっていないと思う。ごめんなさい。
さて、その「とある日」に執り行われたのが『相磯秀夫先生を偲ぶ会』だ。私があらためて紹介するまでもないことだが、相磯先生は、1971年に慶應義塾大学工学部教授に就任後、80年代にはSFC設立に中核的な役割を担われ、環境情報学部初代学部長(1990年〜)、政策・メディア研究科初代委員長(1994年〜)を歴任された。義塾退職後も、東京工科大学学長を長年にわたって務め、新たな学際領域での研究環境の整備と教育の充実に尽くされた。まさに大人物だ。まだまだ残暑の続く9月7日、そんな相磯先生が逝去された。享年93歳。まずは、生前のご厚情に深く感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。
一報が入ってすぐに、ご家族から「落ち着いたら故人と SFC を訪問したい」とのご希望をいただいた。そのときはこれほど大きな集いとなるとは思っていなかったが、所先生、徳田先生をはじめとする相磯研卒業生の皆さまのご尽力もあり、偲ぶ会の SFC 開催が実現する。
私は、日吉・矢上で相磯先生の講義を直接受けた最後の世代だ。学部2年のときに受けた「計算機基礎」は、私の目を開かせ、計算機の世界に足を踏み入れるきっかけとなった。とはいえ、相磯先生と SFC で直接的なかかわりがあったわけではなく、諸先輩とのつながりで幾度かお目にかかり、お話をうかがったことがあったくらいだ。まさに雲の上の人という存在だった。そんな私が会の司会を仰せつかった。
何度か打合せを重ねる中で、分刻みの進行表が出来上がっていく(とはいえ、この業界だ。分刻みのスケジュールが守られるわけもなく.. 略)。発起人の顔ぶれ、当日お話をうかがう方々のお名前を拝見するだけで気が引き締まる。「高汐さんには当日まで元気でいてもらわないと」という言葉にもプレッシャーを感じつつ、12月6日の朝を迎えた。
午前中に植樹式。両学部長をはじめ現役の教職員、多くの塾内外関係者や相磯先生のご家族が見守る中、本館(Α館)正面に全員で「杏」を植樹した。ご家族からは、「可愛らしく美しい花を咲かせる杏を相磯先生が好まれていたこと、何よりも先生が甘いものが好きであったことがこの木を選ぶ理由になった」と紹介があった。どうかこの地に根を張り、いつまでもあたたかい目でわたしたちを見守っていただきたい。
昼食会での懇談を挟んで、いよいよ偲ぶ会の本番。前日までに300名近い参加登録があり、会場となったΩ館11教室は満席の状況。オンラインでの中継も行われる。会場の設営と運営、当日のロジには、中澤先生と大越先生の研究室の関係者、学生の皆さんにお手伝いいただいた。いつものことながら、両研究室の機動力には、ただただ感謝。一ノ瀬学部長の開会のあいさつ、黙祷、安西元塾長と三谷様による弔辞と、ここまでは厳かな、少ししんみりとした空気の中、会が進む。ここまでは。
弔電の奉読も終わり、相磯研の OG、OB 7人の方々が登壇されての思い出の紹介に移ると、ガラリと雰囲気が変わる。もともと「あまりしんみりとした会にはしたくない」という先輩方の希望もあり、進行役の私もその点を留意していたのだけれど、いやいや心配することもなかった。思い出を披露される全員が、さも昨日あったできごとのように、活き活きと、満面の笑顔で相磯先生との思い出をお話しされる。司会としては時間が気になってソワソワではあったが、「まぁいいか」という気分になってしまった。いつまでもお話をうかがっていたい。あらためて相磯先生の大きさを実感できる時間だった。そんな相磯研関係者のつながりを、村井先生は「相磯ファミリー」と呼ぶ。村井先生は、Facebook への投稿の中で、「相磯ファミリーのアカデミズムすごい。『やっちゃいけないことをやる』ことこそが研究で、アカデミズムの使命。救われた。」と書かれた。この日、私を含む参加者があらためて得た相磯先生からの教えは、まさにこのことだったのだろう。
伊藤塾長は弔電の中で、相磯先生の訃報を「巨星墜つ」と表現された。繰り返しになるが、私は理工学部で相磯先生の授業を直接受けることができた、最後の代かと思う。縁があって SFC に呼んでいただいたときには、既に相磯先生は東京工科大に移られたあとであったが、相磯先生が築かれた SFC マインドは様々な形でキャンパスに残っていた。いまでも、優秀な大学院政策・メディア研究科修士課程修了者には、「加藤賞」と並んで「相磯賞」が授与される。来年の春には、新たに数名の修了生が「相磯賞」受賞者の列に加わるだろう。多種多様な分野の人間が協調し、新しい扉を常に開き続ける、そんなキャンパスを守り、発展させていくことを先生にお約束しよう。
当日配布された小冊子の巻末にも記載されているが、相磯先生が信号処理学会に寄稿された「私の研究遍歴(その3)」のまとめに、後輩であるわたしたちへのメッセージがある。
「教育・研究者はいつも学術の発展や社会の進化に役立つ"ビジョンと夢"を抱き、全力でその実現に努力することが大切なことを、身をもって経験した。どんな時代でもこの考え方は普遍であろう。若手教育・研究者の奮起と不屈の気概に期待したい。」
(相磯秀夫,私の研究遍歴(その3),信号処理学会誌,Vol. 16,No. 5,pp. 369-383,2012年9月.より引用)
偲ぶ会が終わってこの一文を読んだとき、「昔話はほどほどにして、未来を創れ!」と先生から発破をかけられた気持ちになった。
そんないち日だった。
P.S.
タイムリーなことに、SFC 創設時の貴重な記録映像が4Kデジタル化され、YouTube にアップされました。こちらも合わせてご覧いただくと、SFC のルーツにあらためて触れることができるかもしれません。
2025年もあとわずかになりました。皆さま、私を反面教師として、健やかに、よいお年をお迎えください。
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高汐 一紀 大学院政策・メディア研究科委員長/環境情報学部教授 教員プロフィール
