いまからちょうど30年前。私は中国に留学した。1995年9月。4月に総合政策学部を卒業し、政策・メディア研究科修士課程に進学してすぐに、上海にある復旦大学での一年間の留学生活がはじまった。
中国語、そして現代中国政治を勉強しようと考えて学部を選択し、そして大学院にすすんだ私は、その在籍中に北京に留学したいと考えていた。当時、財団法人霞山会の派遣留学制度の支援を得て留学したため、留学先の大学を自分で決めることはできなかった。留学先の希望リストは提出するが、中国の教育部が決める。それでも自分は北京の大学に留学すると思い込んでいた。
しかし結果は上海だった。通知を得て私は天を仰いだ。政治を勉強したいのにもかかわらず、首都の北京ではなく、経済都市上海に留学することになったことに、気持ちが沈んだ。そのまま、私は海を渡った。
北京ではなく上海。これは、私の研究者として大きな分岐だったと思う。上海行きは、中国の多様性を自覚させる契機を私にあたえてくれた。一年間の留学を経て、中国は北京だけではないという当たり前の事実を知った、と言えばよいのだろうか。もう少し専門的な知識を得てから再認識したことは、中国政治のダイナミズムは中央と地方のバーゲニングにある、ということだ。権威主義国家の政治は、分厚い鉄板のように画一的だ、とイメージするかもしれない。しかし、その認識はステレオタイプであって、「政令不出中南海」という言葉あるように、政策は北京では決まらない。北京からの距離に比例して、社会の空気は緩む。いまでもそれは変わらない。
留学して30年を経た今なお、私は北京を足繁く訪れるが、長期滞在したことがない。上海での留学生活の後に、香港に2回、合計4年間滞在する機会があった。中央から外れたところから、真ん中を観察してきたことになる。北京を上海から見て、そして香港から捉える。香港の先には、シンガポールがある。転じて台北がある。遠いところから北京を見る。そんなふうに対象から距離をとって観察する癖を手に入れたことは、とても良かった。もちろん、いつか北京に長期滞在してみたい。
留学してすぐ、言語の「互相学習」をする中国人の友人ができた。彼には本当に世話になった。上海での生活がはじまって半年が経過した1996年の春節の前後、友人の高校時代の友人達が進学した大学を尋ねまわり、その後に友人の実家に滞在した。遠く、寒い、雪のなかの1ヶ月強の農村生活であった。この時間は忘れられない。「中国を知るには農村を知らなければいけない」という学部時代に聞きかじった浅い理解に止まっていた私に、「地域を研究する」ことの重さを教えた。
この30年の間に、中国の自己認識とその対外行動、そして中国を取りまく環境は大きく変わった。経済的な成功によって国力を増大させた中国は、国際秩序の流動を牽引する力を得た。自らを「大国」と自認するようになった中国の対外行動に、国際社会はassertiveさを見出している。中国が平和と繁栄のために必要としている国際秩序と、日本が平和と繁栄のために必要としている国際秩序は、同じものなのか。そうした問いが提起されている。
国際社会における国家の立ち位置や力関係といった構造的要因が国家の行動を決定するとはいえ、その政治制度といった国内要因や政治指導者の認識は国家の行動に大きく影響する。そうだとすれば、中国の外交を自立したものと捉えるのではなく、あくまでも内政の理論に引きつけて理解するほうがよい。中国政治を専門とする私は、研究関心を内政だけにどうしても留めることができない。中国外交を論じるとき、私はその内在的な理解を心掛けてきた。この研究スタイルは、30年前の留学先が北京ではなく上海になったことに原点があるのかもしれない、といまは思っている。
この夏、研究室の学部生と院生とともに復旦大学、南京大学を訪問した。30年をへても復旦大学、中国の大学との交流は続く。今年上海と南京を訪れた学生たちは、30年後も中国を見ているだろう。大人になった学生達は、中国を観察する視座をどの様に成熟させているのだろうか。