はじめに
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下、「SFC」という)は、総合政策学部と環境情報学部のふたつの学部の新設に合わせて1990年4月に開設されている。国内他大学に先駆けてアドミッションズ・オフィス(AO)入試を初年度から導入、文系・理系という枠組みを超えた学際教育の展開、そしてインターネットを活用した教育・研究の推進など、その取り組みは学内外から幅広く注目を集めてきた。また、学生たちは深夜までキャンパスに残り、研究や課題に取り組むことが一般的であり、「夜間残留(以下、「残留」という)」という言葉も生まれるなど、「24時間キャンパス」という言葉の先駆け的な役割を果たしてきたとも言える。
なお、「24時間キャンパス」とは、概念的には単なる時間の問題ではなく、「キャンパス全体が知的創造のためのアトリエである」という考えから出発しているものでもあるが、本稿では、「24時間キャンパスと呼ばれたSFC」の変遷を振り返るとともに、そんなキャンパスの今をお伝えしたい。
1.「残留」とは何か
「24時間キャンパス」の根幹を支える仕組みが「残留」と呼ばれる制度である。「残留」とは、科目担当教員の許可が得られた正課での活動に限って、事前申請を行った者のみ23時~翌8時までの時間、学生がキャンパスに滞在することを認める制度のことである(※テスト勉強、サークル活動、就職活動といった正課外での「残留」は一切認めていない。滞在場所は教室および教員の許可を受けた学生のみが利用できる共同研究室・個人研究室に限る)。SFCでは、コンピュータやインターネットを活用したプロジェクト活動が多く、キャンパス開設当初から、最新鋭のワークステーションを多数導入するなど情報環境の整備に注力してきた。このようなことも背景に、キャンパスを「24時間キャンパス」と位置付けてフル活用したいという学生のニーズに「残留」という制度と共に応えてきたのである。
なお、[表1]として2024年度の「残留」申請者の属性を一覧にしているので参考にしていただきたい。また、「残留」の申請画面が[写真1]である。「残留」を希望する学生は当日の20時までにこのフォームを使って事前申請を行う必要がある。
2.「残留」が当たり前だった時代のキャンパスの風景
私は2011年6月にSFCの学事担当課長となり、2015年10月までの4年5ヶ月をSFCで過ごしている。その際に日々目にした光景は10年経った今も目に焼き付いている。それこそが、キャンパス内の各教室棟2階踊り場の手すりから階下へと多数の寝袋が干されている光景であった。これは一年を通してキャンパス内に当たり前に見られたものでもあり、これこそが「24時間キャンパス」の何よりもの象徴であったことは間違いないだろう。
3.「図書館」が24時間開館だったという大いなる誤解
一方で、他大学の方に対して大いなる誤解を生んでいることがある。それが図書館の開館時間のことである。数年前に、ある他大学を見学させていただいたことがあったが、その際に当該大学の図書館も見せていただく機会を得た。そして、当該大学の図書館が24時間開館を実現していることをお聞きし、とても驚いたことを覚えている。案内いただいた方に、すぐにそのことをお伝えしたが、その際、予想もしない言葉が返ってきた。「何をおっしゃっているのですか。SFCさんの真似をさせていただいただけですよ」。見学をさせていただいた時点でSFCの図書館が24時間開館していないことはもちろん認識していたものの、その一方で、過去の知識を持ち合わせていなかった私は、過去は24時間開館していたのだと理解し、その場のやりとりを終えている。そして、キャンパスに戻った後も特にそのことについて調べることなく、やがて記憶の彼方へと押しやられてしまっていた。そして、この度、本稿を執筆させていただく機会を得たことで、キャンパス開設時にまで遡って、図書館の開館時間の変遷を調べる起点が生まれた。その結果わかったことは、SFCの図書館が24時間通常開館していたことはキャンパス開設以来一度もなかったという事実である。当初の閉館時刻は22時であり、その後23時まで延長された時代はあったが、未だもって24時間通常開館していた事実はない。(※1993年度から23時閉館に変更、コロナ禍以降22時閉館となり現在に至る。ただし、2019年度に試行的に7月および1月に建物一階のオープンエリアと呼ばれる場所を夜間開放する試みを行っている。結果は思ったほどの利用者数が集まらず翌年度にコロナ禍が訪れたことで、その試みは終了している)
4.「図書館」が24時間開館だったという伝説の種明し
では、どうして他大学の職員にSFCの図書館が24時間開館であると誤解されてしまったのだろうか?実はこれには慶應義塾大学の図書館組織の名称を含めた事情がある。慶應義塾大学では図書館のことをメディアセンターと呼んでいる。これは、従来型の図書館を情報化時代に相応しく衣替えするというコンセプトの下に日本の大学で初めて行われたこととも関係する。SFCには、キャンパスの真ん中、まさしくへそと言ってよい場所にM(ミュー)館という建物があり、開設二年度目にここにメディアセンターが置かれた[写真2]。また、そのコンセプトに基づき、メディアセンターが現在でいうところのIT管理部門を兼ねてもいた。現在のM館の中には、湘南藤沢情報センター(KIC)というIT管理部門が置かれているが、開設二年度目にこの場所にSONYのワークステーションNEWS1520が72台設置され、1996年度から、「新オープンエリア」という名称がつけられるとともに、学生が24時間利用できるように開放された。つまり、SFCの図書館が24時間開館だったという伝説は、書籍類を閲覧することのできるいわゆる図書館のことではなく、同じM館の中にありメディアセンターの組織の一部であったIT管理部門が管轄していた「新オープンエリア」が24時間利用可能だったということが誤解されたものと思われる。なお、現在、M館内の当該の場所には、湘南藤沢情報センター(KIC)の事務室が置かれており、学生が利用できる特別教室は存在しないため、その伝説の根拠さえ失われている。
5.滞在型教育研究施設の試み
図書館が24時間開館ではなかったという一方、SFCでは「未来創造塾事業」というあたらしい試みを2007年度から開始している。学生や教員をはじめ、塾内外、国内外を問わず、SFCに滞在し、共に生活しながら慶應義塾の教育理念のひとつである「半学半教」を実践する滞在型の教育研究施設の整備である。着想からさまざまな社会情勢の変化に直面し、計画の再検討・変更をせまられる中、2015年に、学生・教職員・卒業生による「SBC(StudentBuiltCampus)」が発足し、学生と教員が中心となって「未来のキャンパスは自分たちで創る」をコンセプトに掲げ、あたらしいキャンパスづくりに取り組むこととなった。そして、2020年度に7つの建物から構成された「β(ベータ)ヴィレッジ」という滞在型教育研究施設が完成した[写真3]。以降、「βヴィレッジ」では、SBC入門やSBC実践などの授業科目が開講されているほか、研究会合宿や特別研究プロジェクト(休校期間中に集中的に開講される授業)などの滞在型教育研究の実践が行われている。
6.キャンパスに隣接する学生寮の新設
「βヴィレッジ」とは別に2023年3月にキャンパスに隣接する場所に収容定員300名という規模の学生寮「Η(イータ)ヴィレッジ」を新設した[写真4]。「キャンパスに住もう」をスローガンとした学生寮は、四つの居住棟と一つの共用棟から構成されており、共用棟内に設けられた食堂で月曜日から日曜日の朝食と夕食が提供されている。この学生寮の竣工に伴い、2007年度から進められてきた「未来創造塾事業」は一区切りを迎えた。「Ηヴィレッジ」では、SFCの伝統とも言える学生が自分たちで作るという伝統に則り、毎月のイベントなど活発な活動が行われている。キャンパスに近接した環境で勉学に励みたいと希望する学生にはまたとない施設であるが、一方でこの学生寮に暮らす限り、キャンパスに「残留」する意味あいはさらに薄れたことも事実であり、「24時間キャンパス」というもの自体の在り方にも一つの変化の起点を与えたと言えるだろう。
7.「24時間キャンパス」とコロナ禍
さて、「βヴィレッジ」や「Ηヴィレッジ」などのあたらしいキャンパスの在り方の模索もはじまった「24時間キャンパス」としてのSFCだが、昨今全体としてのキャンパスの様子がすっかり変わってしまったことをお伝えしておきたい。私は、2022年4月から湘南藤沢キャンパス事務長として二度目のキャンパスでの日々を送っている。赴任当初は、コロナ禍真っただ中で、オンライン授業を主体とした運営が続いており、キャンパスに来る学生の数も限られていた。しかし、2023年5月8日にCOVID―19の感染症法上の扱いが変更となり、対面授業を主体としたキャンパスへと一気に戻ることとなった。本稿を執筆している2025年5月時点では、授業の大半は対面形式に戻っており、キャンパスは、基本的には私が10年前に学事担当課長として見た光景に戻っている。しかし一点、10年前とはすっかり様変わりしてしまったことがある。それこそが「24時間キャンパス」の象徴でもあった寝袋の存在である。前記した通り、10年前のキャンパスには寝袋が多数干されている光景が日常風景として存在していた。しかし、現在では、キャンパスのどの建物へと足を運んでも寝袋が干されている光景を見かけることはなくなってしまっている。[表2]は、入手できた最も古い記録となる2006年度と最新の2024年度の「残留」の申請者数を月別に比較したものである。両者の間には20年近い歳月が流れているが、2024年度の申請者数が2006年度の約8分の1に激減していることがお分かりいただけるかと思う。この間のキャンパスの変遷としては、まず特別教室という名称でWindowsやMackintoshのパソコンを多数設置していた教室が普通教室へと転換されたことがある。昨今、コンピュータ自体の性能が飛躍的に向上し、個人が所有するパソコンでもそれなりの処理が十分こなせるようになったことがある。また、VPNサービスを利用することによって、キャンパス外から学内のネットワーク環境に直接アクセスすることも可能になっている。これらのことが必ずしもキャンパスに「残留」してまで何かをするという必要性を大きく減らした理由だと考えている。また、コロナ禍によって人と人との関係性の在り方および行動様式に大きな変化があったことも理由として挙げられるだろう。現代の学生は健康や生活の質を大切にする傾向が強くなっていることもあり、無理をしてまでキャンパスに残って深夜に何か作業をすることを避ける傾向が強くなっているとも考える。また、「個」を重視する傾向が増していることも要因の一つであろう。
8.まとめ
以上の通り、寝袋が象徴する「24時間キャンパス」という、ある意味でのSFCの文化は過去のものとなりつつある。それは、これまで見てきたようにコンピュータ技術の進歩があり、学生の行動様式の変化でもあった。そのような状況下にあって、我々教職員が次になすべきことはキャンパスが置かれたあたらしい環境を見据え、「24時間キャンパス」の次に来るであろう、次世代の学修環境の構築へ向けた準備を進めていくことだと考える。そして、それこそが「実験キャンパス」というSFCが生まれながらにして定められた宿命に対する答えなのだと思う。
この記事は、大学時報 No.423(2025年7月発行)より引用しています。
大学時報 No.423