大学業界では、目の前にいる誰かの名前を思い出せなかったら「先生、先生」と言っていれば良いという話がある。弁護士業界や医師の世界でもひょっとするとそうかもしれない。名前を思い出せれば良いのだが、思い出せないことが増えてきた気がする。
自分の記憶力が落ちてきたのではと心配になり、ある政治家とそんな話をしたら「それはね、接する人の数が増えたからですよ。常任理事だと、千人の単位じゃないですか。政治家だとね、万人の単位になるから、大変なんですよ」とのこと。私が千人の名前と顔を覚えているとは全く思えないものの、数百人は覚えているべきなのだろう。
おまけに外国人の名前が難しい。ヨーロッパ系、中国系、韓国系、どれも難しい。アラブ系やアフリカ系は名前の付け方からして難しいのでなかなか覚えられない。毎年数回会う人もいるので、それなりに顔は覚えているのだが、「あー、この人は何て名前だったかなあ」と悩んでしまう。
そして、おそらく、彼らも私の名前を覚えていない。私の名前は外国人にとっては発音しにくい上に長い。同僚のKen Jimboなんて名前はうらやましくて仕方がない。Kenは英語圏でもよくある名前だし、Jimboもたぶん外国人には覚えやすい。Tsuchiyaなんてのはヨーロッパ系の言語の人には読めないし発音できない。「チュチャイヤ」なんて読まれたこともある(中国や韓国の人は割と上手に発音してくれる)。Motohiroも長すぎるし聞いたことのない言葉なので覚えられない。「モーターサイクル・ヒーロー」の省略だよと言うと笑ってもらえる。
ある会議で「私の名前は覚えにくいので覚えなくて良いです。でもKeio Universityは覚えてください。私のことはKeio Guyと呼んでください」と言ってみたら、その会議が終わるまでずっとKeio Guyと呼ばれたので、よっぽど私の名前より覚えやすかったのだろう。
しかし、Keioも音として「ケイオー」と聞いて何とか覚えてくれるのだが、文字でKeioと見ると、ドイツ系の人は間違いなく「カイオー」と発音する。「ケイオーです」と言うと、怪訝そうな顔をしながら口の中で練習している。
とにかく、外国人相手でも、肩書きが分かれば、名前を忘れても何とかなる場合がある。President、Vice Chanceller、Vice Presidentと呼びかければ何とかなる。あるビジネスマンに聞いたのは、「名前を忘れちゃったら、マイ・ブラザー、マイ・フレンドって呼びかければたいてい大丈夫だよ」とのこと。大学業界だとちょっとやりにくいか。
問題は慶應の職員さんの名前を忘れたときだ。この場合は、先生とかミスターとかミスと言って呼びかけるわけにはいかない。普段よく接しているにもかかわらず、どうしてもすぐに名前が出て来ない方が数名おられる。なぜだか分からないが、瞬時に出て来ない。別にその人たちのことを嫌いなわけではない。時間をかけて、あの人の名前は何だったかなあと考えて数分すると出てくるのだが、数秒では出て来ない。とても気まずい時がある。
普段あまり接しない人でも、すぐに名前が出てくる人とそうでない人がいる。あの違いは何なのだろう。人間は脳の力を全部使い切っていないと聞いたことがある。しかし、なんだか毎日ヘトヘトである。私は自分の名前を覚えてもらっているとは期待していないので、私が名前をすぐに思い出せなくても許してもらいたいと切に(そして密かに)願っている。
土屋大洋 常任理事/政策・メディア研究科 教授 教員プロフィール