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2005.07.20

21世紀感覚はどこまで永遠?なのだろうか|熊坂賢次(環境情報学部長)

もう25年ぐらい前のことだろうか。もちろん僕も十分に若手の研究者で、遅れてきたパーソニアンとしていろいろ次の社会のコンセプトを、けっこうマジに模索していた頃のことだ。あるとき、高橋(潤二郎)先生が「21世紀感覚っていうのは、なにかな?」と集まっていたみんなに問いかけた。まだ誰も21世紀のことなど眼中にない時代に、21世紀になったときに、人々が自明なリアリティとして受け止め、それなしには時代を語れない時代感覚を考えよう、というわけだ。分かるわけがない。

しかし考えないわけにはいかない。僕も、いろいろつまらん発言をしたが、みんな、たいした発言にならないので、高橋先生が話しはじめた。要は、こうだ。社会の最初は、どこでも聖なるマジカルパワーをもつ人が世界を創造し、社会の秩序のルールを確定した。それが聖と俗のカテゴリー。しかし聖の世界が永遠であることはなく、社会の進化?は、俗の世界を台頭させ、その世俗化から、雅と鄙のカテゴリーが発生した、ということだ。雅の世界は都市の発達と関連し、そのアーバンスタイルが雅として社会的な威信を生み出した。こうして雅な貴族社会が成立する。しかしこの社会も永遠ではなく、辺境の地である鄙の世界が大きな時代の流れを誘導するようになる。それが政治や軍事力をもって台頭する強者の世界である。武力をもって社会を平定する権力は、こうして強弱のカテゴリーを生み出した。そして最後に、弱者の中から貨幣を操る者が登場して、今の社会を創る。要は、20世紀までの歴史は、希少な財を誰が所有するかをめぐる歴史で、聖(価値)→雅(威信)→強(権力)→富(貨幣)のメディアが位相運動するにすぎない、ということなのだ。おお、これは、パーソニアンとしては、おいしい図式だ、と思った。

で、21世紀感覚とはなんだ、ということになって、美醜や賢愚といった、別のカテゴリーを話しあったが、結局は21世紀になってみないと分からんな、ということになった。ちょっと情けないが、未来なんて、予言の自己成就の方式以外ありえないと思った。

しかし今ならば、21世紀感覚がなんなのか、すぐに分かる。インターネットの世界から生成されたネットワーク感覚だ。これが新しい可能性を次から次へと誘発させることは十分に予感できる。しかも今までの歴史の論理を覆す何かが潜んでいる、とも確信している。面白そうな時代になったものだ。

では、そんな21世紀世界にもう一度、生まれてみたいか、と問われると、過去の20世紀少年の夢の記憶を消失させたうえでの、再生だからな、と、ちょっとセンチメンタルになってしまう。自分の記憶を消去する勇気は、まだないみたいだ。58年の時間の流れは、自分という20世紀的存在を形づくるには、それなりの時間であった。なので、未来を白紙から自在に描き記す気力はない。永遠のヤング・アット・ハートにこだわる僕としては、ちょっと、だらしないかな、とも思うが。

(掲載日:2005/07/20)

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