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2006.01.26

忘れられない贈り物|佐藤蓉子(看護医療学部長)

贈り物を頂くのはいくつになってもうれしいものだが、贈られるタイミングでも喜びが増減するので贈り方にも工夫が必要である。贈って下さった方が私のことを気にかけて、喜びそうなものを思案してあれこれ選んでくれている姿を想像することで、頂いた喜びがさらに大きくなる。昨年のクリスマスには、ちょうどイヴに小さな小包が届いた。きっと、イヴに届くようにと忙しい仕事の合間に時間をつくってあれこれ選んでくれたのだと、その姿を想像してこころがぽっと温まった。

私自身は、超がつく無精者で、タイムリーに何かをすることがなかなかできないタイプである。

贈り物についても、喜んでもらおうといろいろ考えたり悩んだりする割には、自分で納得するものを思いつかずにずるずると時機を逸したころに、“遅れてごめん”などという言い訳を添えて小さくなって贈る・・・ということを繰り返していままできた。だから、喜んでもらえてよかったと自分で納得できるような贈り物ができた記憶はそんなにない。その点では寂しい人生である。

そういうこともあって、タイムリーに届いた贈り物はとにかくそれだけでもうれしいし、そのようなことができる人を羨ましくなってしまう。贈り物に載せた“気持ち”を通じさせることができるということは一種の才能だと思う。

無精に加えて、子どものころから私は、けっこう細かいことが気になり、周囲の視線を気にするタイプだった。小学生のころから母親のすることを批判的に見て、“そんなことをすると格好悪い”とか、“もっと綺麗にして”などと注文をつけて “嫌な子”と叱られることがあった。そのようなときに母はよく“子どもはそんなどうでもいいような小さなことは気にしなくていい”と言っていたものだった。 

おとなになって、職場での人間関係に気を遣って悩み母親に愚痴をこぼすようになったときに、“大きな筋道さえしっかり通っていれば、小さなことは少し間違っていても、曲がっていてもいいの!”と、喝破された。  

自分がその母親の年齢をはるかに越える人生を歩むようになったいまも、この言葉は私の道しるべになってくれている。どう歩むべきか悩むときに、母のこの言葉を思い出すと、“そうだ小さな間違いを怖れることはない。進むべき方向性さえ見失っていなければいい”と、自分に言い聞かせて勇気をもらっている。 

母が残してくれたこの言葉は、私にとって忘れられない贈り物である。

(掲載日:2006/01/26)

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