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2007.07.20

看護師であるということ|佐藤蓉子(看護医療学部長)

春学期も終了間近で期末試験のシーズンになった。学生たちは夏の長い休みを前に、試練のときを過ごしている。みんな頑張れ!

私はこの春学期に1年生を対象に「看護学原論」を担当した。その最後に私自身の看護についての考えを話すように求められたが、それは結構難しいことだった。看護職は、“きつい、汚い”などといわれて敬遠されがちな職業である。そのような職業を学生たちが誇りと希望をもって選択できるように、何をどのように話したらよいのかと少し悩んだ。

私の職業人としての人生の始まりは小児病棟で、そこで会った子どもたちのなかには、40年以上経たいまでもはっきりと顔やエピソードを思い出せるような何人かがいる。急性白血病の子どもは小さな身体がますます痩せて細くなり、対照的に瞳だけが大きくなって、その瞳でじっと見つめられると、この子はまだ3歳なのに自分の命の炎が燃え尽きそうなことを悟っているようだと厳粛な気持ちになった。5歳にもなっていない糖尿病を病む子どもは、隣の子どもがプリンを食べている姿を見ないように視線をそらしている。自分の運命をちゃんと知って耐えている姿は、幼いながらも大人のちゃちな感傷を許さない何かを示していた。また、成人病棟では、まぶたに焼き付いて忘れられない眼差しに出会った。本人には病状が知らされていない末期がんを患っている人で、6床室の廊下側のベッドにその方は寝ていらした。看護師ですらあまり声もかけなくなっているベッド上から廊下を通り過ぎる私を見つめているその眼差しに出会っても、応えることのできない幼い看護師の自分であった。

看護師として働くということはいくつかの決して忘れられない人の眼差しをこころに抱えながら、その眼差しに促されて学んでいくようなときを過ごすことになると思う。そういう自分育ては、教養や人間性などという観念的なことではなく、人に向かって差し伸べる手の技に具体的なこととして表現されなければならない。看護は実践だからだ。

だから、いまこの学生時代に、学習すべきときに、しっかりと知識と技術と、人に向けるべき眼差しを身につけるように頑張って欲しい。君たちならできると信じている。

(掲載日:2007/07/20)

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