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2010.02.01

年が改まるとき|太田喜久子(看護医療学部長)

       雪降れば冬ごもりせる草も木も 
               春に知られぬ花ぞ咲きける   (紀 貫之)

節分まで最も寒い季節、吐く息が白く手袋の手が冷たくても、蝋梅の香りや福寿草の黄の花が、「春はもうすぐ」と教えてくれる。

立春が新年の初日で、前日の節分が旧年の最終日。

節分には「福は内、鬼は外」と大声で豆をまいて災いを振り払い、健康を願う。家の中に豆をまくという、日常できないことが許される新鮮さがある。

年が改まるとき、さまざまな行事をしながらその節目で身についていることは祈ることだと思う。なぜ祈るのだろうか。旧年の反省や後悔には、それらを一新させようとし、新年こそは、という願いをこめる。

元旦の初詣もほとんど欠かしたことがない。近所にある八幡様の参道の砂利を踏みしめていく。そこは昔、源頼朝が奥州征伐時に立ち寄ったとかで、大きなお手植えの松があった。参拝の後、境内にあった大太鼓を思い切りドンドンと叩くと、その振動が手から全身伝わっていき、さらに気持ちを引き締めてくれたものだ。

三鷹にある深大寺前の楽焼店で干支の小さな置物を買うのも毎年の楽しみになっている。手作りの温もりを感じながら一つ一つ丹念に見比べてお気に入りの表情のものを探す。玄関に置いて一年間の無事への見守りをお願いする。

先ごろ、水平線からの日の出をみていて、雲と空と海の紅から白へ色の鮮やかな変化と、徐々に強まる光の眩しさに圧倒され、その厳かさに思わず手を合わせていた。

自分の力には及ばない大きな存在への畏敬の念を持ちながら祈ること、自分の思いや願いをはっきりと意識し、心の中で刻むように祈ることは、とても大事なことだと思う。それは、日常の中で思いや願いに近づこうと努める自分がいる、ということである。

今年、SFC二十年、看護医療学部も十年目、SFCならではの追及は止むことなく、これまでの実績を踏まえさらに大きく力を発揮していくときである。

これからへの思いを改めて強く抱き、その思いが実現できるよういろいろなチャレンジをしていこう。

(掲載日:2010/02/01)