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2010.06.03

偕楽園のたんぽぽ|阿川尚之(SFC担当常任理事)

 5月末、家族懇談会という催しに出席するため、水戸へでかけた。慶應義塾大学へ子女を通わせる保護者のために、全国各地でこの懇談会を催す。そのたびに常任理事や学部長が事務の責任者と一緒に交代ででかける。そして学習、学生生活、就職など、保護者の関心が高いことがらについて説明する。懇談会での私の役割は、慶應の代表として冒頭のあいさつをすること。ほとんどそれだけだが、ご父母・ご家族はやはり慶應で学ぶ学生諸君のことが心配だから、丁寧にやらねばならない。そして私個人としては、普段の仕事から解放され、ちょっとした旅ができるし、見知らぬ町へ乗ったことのない列車で行ける。

 水戸での懇談会当日、東京駅で山手線に乗り換え、上野に向かった。東京で働いているのに、普段なかなか上野の駅には行かない。山手線のホームから地下道をくぐり、地平ホームと呼ばれる古い一角に出る。列車が入ると突き当りで停まる櫛形ホームで、13番線から17番線まである。昔は20番線まであったらしい。ローマのテルミナやロンドンのパディントンを思い出す。おそらくヨーロッパの終着駅がモデルになったのだろう。昔慶應高校3年生のとき、このホームから北海道へ向けて寝台列車で修学旅行に出発した思い出がある。ちょうど13番線に寝台特急「北斗星」が入線していた。機関車の横を通り過ぎて、客車のなかをのぞく。立派な個室寝台だ。一度乗ってみたい。

 10時発の特急「スーパーひたち15号」はすでに16番線へ入線していて、早速乗り込む。車内は静かで快適である。日本の鉄道はすばらしい。余談だが、テレビのクイズ番組に出てくる人形は、「スーパーひたち君」だとばかり思っていた。日立があの番組のスポンサーだから、日立駅に停車する特急の名前と同じなのだと信じていたが、あれは「スーパーひとし君」なんですってね。

 それはともかく「スーパーひたち15号」は定刻に発車、東京の下町を北東の方角へ走り、隅田川、荒川、中川、江戸川を次々に渡る。先日の日曜日、雑誌の取材で、隅田川と荒川を上り下りした。そのときに下から見上げた鉄橋である。東京の川が妙になつかしい。松戸、柏、取手、牛久、土浦、石岡と、途中の駅を次々に通過、視野が開けて田んぼに植えられた苗の緑と木々の緑が目にしみる。ほどなく特急電車は偕楽園の横を抜け、速度を落として、水戸駅の構内に滑り込んだ。

 水戸を訪れるのは2回目である。一昨年家族で北海道を旅行した折、苫小牧からフェリーで大洗まで帰ってきた。鹿島臨海鉄道で水戸へ出て、常磐線の特急で東京へ戻ったのだが、水戸で途中下車をして偕楽園を訪れた。季節は晩夏、落ち着いたこの庭が、すっかり気に入って、また訪れたいと思った。家族懇談会は午後2時からなのに3時間も前に来たのは、偕楽園を再訪するためである。列車を降りて水戸駅構内の案内所で尋ねると、ほどなく偕楽園表門方面へ行くバスが出るという。コインロッカーへ荷物を放り込み、北口の乗り場へ走って、地元の人たちと一緒に無事バスへ乗り込んだ。

 偕楽園の表門は、庭園の北側、閑静な住宅地の奥にある。正確には好文亭表門。園内の好文亭という邸へ向かうための正式な門という意味である。真黒に塗られているので黒門とも呼ばれる。門を入ってすぐ先の一の木戸を抜け、右側に杉の林、左に竹林を見ながら、道をたどる。道は緩やかに下っていく。空気が乾燥してひんやりと冷たく、木々の影が心地よい。偕楽園といえば梅林と思いがちだが、表門から入るとむしろ深山の趣がある。平日とてほとんど人のいない道をさらに行くと、やがて崖が現れ、階段を下って庭園のへりに沿って歩く。泉や洞窟が並ぶ、そのすぐそばに、先ほど通過した常磐線の線路がある。由緒ある庭園間近を電車が通るのをいやがる人もいるらしいが、私はかえって嬉しい。特急や普通電車が、木々の緑に触れるようにして走り抜ける。今度は急な階段を上がり、開けた見晴らしのよい場所に出た。少し戻って好文亭の入り口をみつけ、中に入る。

 偕楽園は常陸水戸藩第9代藩主徳川斉昭が自ら構想し、天保13年(1842年)に開いた庭園である。この殿様が家来だけでなく庶民をも招いて、茶を供し、もてなすために、この好文亭を園内に建てた。偕楽園という名前そのものが、「偕(とも)に楽しむ」という孟子の言葉から取られた。徳川斉昭といえば、徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜の父親である。攘夷思想に凝り固まり、アメリカとの条約締結に強硬に反対した頑固者という印象がある。大河ドラマ「篤姫」にも登場したから、覚えている人も多いだろう。しかしこの庭や建物を見ると、なかなかの文人でもあった。1800年生まれだから、ペリー来航のときにはまだ53歳。安政の大獄の際に永蟄居を命じられ、水戸で亡くなったのが60歳。今の私の年齢と、さほど変わらない。

 好文亭は二層三階の構造になっていて、三階部分を楽寿楼と称する。順路に沿って邸内をぐるりと回り、最後に階段を楽寿楼まで上ると、急に視界が開ける。眼下には偕楽園の梅林や杉の林が、崖の下には常磐線の線路とその向こうの公園が、さらに遠くに千波湖の水面が広がる。岡山の後楽園、金沢の兼六園、高松の栗林公園、京都の修学院など、多くの庭を見たけれど、これほど眺望のいい庭は他にないだろう。

 周りを見渡しているうちに、いい風が吹いてくる。あまり気持ちがいいものだから、藩主が座る座敷の前に腰をおろし、しばらくぼんやりしていた。斉昭も水戸へ戻ると、この場所に腰を降ろして、景色を眺めたのだろう。慌ただしい幕末のさなか、少しはのんびりしただろうか。さまざまな陰謀やら政変があり、大勢の人が殺されたはずだが、水戸の烈公を含め、もうだれもいない。みんな静かな眠りにつき、この穏やかな景色の一部になってしまった。

 それから150年経って、相変わらず世の中は喧しいけれど、某総理大臣がやめる、やめないで大騒ぎしたなんてことを、後世の人は思い出しもしないだろう。私自身もこのところずいぶん忙しいが、ここに座っていると慌ただしい三田の生活が、とても遠くに思える。やがて時がたてば、私がした仕事など、みんな忘れるだろう。心配せずとも若い人が、あとをついでくれる。ふと脈略もなく、先般亡くなった中川文学部長の、あのやさしくてやわらかな広島弁の語り口を思い出した。穏やかな湖の景色をみながら、一瞬しんみりした。

 好文亭の三階に、本当はこうしてずっといたかったのだが、懇談会の仕事がある。三十分ほどいたあと、ようやく立ちあがって下へ降り、梅園を抜けて偕楽園の外に出た。道端に小さな梅の実が落ちている。もうすぐ梅落としという行事があるのだそうだ。足許にはたんぽぽの花もいくつか咲いている。私は梅の実を一つ取り、タンポポの花を一つ折って、ポケットに入れた。今日のお守りにしよう。しかしタクシーに乗って市内中心部に戻り、懇談会が終わったころ、タンポポの花はすっかり萎れていた。この花の茎を折ったことを、ほんの少し後ろめたく思いつつ、日が暮れるころ、常磐線の特急で東京へ戻ったのである。

(掲載日:2010/06/03)