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2010.04.08

うらうらに照れる春日に雲雀上がり|阿川尚之(SFC担当常任理事)

春がきた。4月になった。桜が咲き、木の芽が顔を出した。裸だった木がうっすらと色づいた。

3月の末から4月初めにかけて、慶應義塾は存外忙しい。いくつも卒業式が催され、入学式が続く。みなさんおめでとう。加えて今週はSFC創設20年の式典があった。SFCは21回目の春を迎えた。

常任理事である私は、こうした式の多くに出席し、壇上で正面を向き座っていなければならない。そのあいだ雑談も内職もできない。どうも苦手だ。そこで祝辞やら挨拶の合間に、出席者をひたすら観察している。姿勢のいい人、悪い人。居眠りしているの、なかには壇上の厳粛さにかまわず、仲間でしゃべったり笑ったりする不埒なのがいる。来年あんまり行儀が悪いのがいたら、壇上から飛び降りて注意しようと思う。式の最後に塾歌を斉唱するときだけは、起立して体を伸ばし、声を張り上げる。

この春は天候がやや不順で、式のたびに暖かかったり寒かったり、強い風が吹いたり、小雨がぱらついたり。それでも何度か晴天に恵まれ、やわらかな春日が桜の花びらを煌めかせた。春は卒業生が慶應を去り、新しい旅立ちをする季節。春は新入生が、さまざまな期待を抱きつつ勉学を始める季節。春は若さと希望と限りない可能性に満ちた、一年で一番華やかなよい季節である。高校の国語の教科書でおそらく多くの学生諸君が読んだ、有名な三好達治の「甍(いし)のうへ」という詩がある。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂廂(ひさしひさし)に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ

若き日にこの詩を読んでうっとりとした、その時の感動は、老いが迫りつつある今も変わらない。春はいい。春は美しい。大和へ旅をして、すぎゆく春に、み寺をめぐりたい。

けれども華やかな春は、同時にほんの少しさびしい。これを春愁というのだと、塾高時代、国語の先生に教わった。

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり、心悲しも 一人し思へば

万葉集に収められた大伴家持のこの歌は、その気分をよく表している。日本の歌詠みだけではない。サイモンとガーファンクルの曲に「4月になれば」というのがあった。

April come she will
When streams are ripe and swelled with rain;
May, she will stay,
Resting in my arms again.

June, she'll change her tune,
In restless walks she'll prowl the night;
July, she will fly
And give no warning to her flight.

August, die she must,
The autumn winds blow chilly and cold;
September I'll remember
A love once new has now grown old.

4月になれば恋に落ち、5月に愛は深まれど、6月娘は気を変えて、7月彼女は飛んでゆく。8月冷たい風が吹き、9月に思い出残りけり。

3月23日、大学卒業式のあと、卒業25年の方々との懇親会を少し早く切り上げ、日吉記念館に戻った。SFCの学位授与式が始まっている。横に座って様子を眺める。先ほどまで満員であった記念館にSFCの卒業生だけが残り、いつもながらいい式である。村井さんが壇上から全員の記念撮影をする。笑い声が起こる。

私はみんなの卒業を嬉しく思いながら、同時にほんの少しSFCを遠く思った。去年の春、私は学部長として壇上で卒業生たちに語りかけていた。今年の春はこうして横にいる。1年という時が流れ、私は去った。残念だとか、いやだとかいうのではない。学部長の職を、だれも知らないうちに静かに去るときが来る。学部長になった時そう書いた覚えがある。気がついたら思ったとおりその時が来て、過ぎた。「年年歳歳人不同」。時は移り、人が変わる。やがて私は学校を去り、やがて人生そのものを去る。

4月2日、大学入学式の日には強い風が吹き、その翌日土曜日、久しぶりで晴天となった。この日、横浜山手外人墓地の一角で、シドモア桜の会主宰による恒例の墓参会が催された。1884年(明治17年)、横浜の米国総領事館に勤めていた兄を頼って、エリザ・シドモアというアメリカ人女性ジャーナリストがこの港町にやってきた。彼女は日本を旅し紀行文を書き、この国と人を愛するようになる。また向島の桜に魅了され、後年ポトマック河畔の新しい公園に桜を植えることを、タフト大統領夫人に勧め同意を得る。これを知った尾崎行雄東京市長が桜の苗木を送って、1912年(明治45年)、タフト大統領夫人、珍田日本大使夫人、シドモア夫人などの手で、ポトマック河畔に植えられた。そして苗木が根付き、有名なワシントンの桜が誕生した。

シドモア女史はその後1928年(昭和3年)に、スイスで亡くなる。翌年、外交官として日本で亡くなった兄の眠る山手の墓地で納骨式が行われた。納骨式には、新渡戸稲造、外務大臣代理、米国大使代理、埴原前駐米大使、有吉横浜市長などが出席したという。そして今でもシドモアの功績を偲ぶ人々が、毎年春の一日、山手の外人墓地のシドモアの墓にお参りする。これが墓参会の由来である。

今年もまた30人ほどの人が墓前に集まった。会長の短い挨拶のあと、それぞれが花を手向け、童謡「さくら」を歌う。

さくら さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか 雲か
朝日にいおう
さくら さくら
花ざかり

墓の傍らには、20年ほど前ワシントンから里帰りした苗木を植えて大きく育てたソメイヨシノの木が立ち、枝々に見事な花を咲かせている。墓参りをする人々の上に、満開の桜の上に、青空が広がる。シドモア女史とは直接縁のない人たちが、日本に縁を結んだ一人のアメリカ人女性を、死後80年経った今も偲ぶ。お墓のなかに彼女は居ないかもしれないけれど、人々の記憶のなかにシドモア女史は生き続ける。

シドモアの桜の木の下で、木漏れ日の暖かさを感じ、歌を歌いながら、私はこれまでに繰り返された数々の春と、これから訪れる数々の春を思った。

(掲載日:2010/04/08)