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2010.06.21

パーソナル工場|國領二郎(総合政策学部長)

ちょうど(ガーシェンフェルド教授の提唱する)パーソナル・ファブリケーションの意味と可能性なんてことを考えていたところに、作家の方から個人的にリトグラフをいただいた。作品そのもののすばらしさに加えて、同じ版の絵はどんなところに飾られているのかなと思わせつつ、手書き署名入りで「二つとない」感覚もあって、とても味がある。

大量生産時代の終わりなんてことは、もう何十年も言っていることで、それほど目新しいことではない。しかし、生産手段の側に規模の経済が働いている間は、せいぜい「マスカスタマイズ(大量生産した部品の組み合わせで多様性を演出する)」するくらいで、なかなか大量生産の壁は破れないできたし、生産者と消費者は切り離れたままできた。大きな工場で作られたモノを、大きなお店で安く買って消費するモデルは健在だ。

そこに現れつつあるのが、ソフトウエア制御された小型の工作機械である。誰でもが「モノづくり」をできる可能性を示唆しており、パーソナルコンピュータがその柔軟性ゆえに大型コンピュータを凌駕したような現象が起こるかもしれない。また、「デザイン」が市場化されて、気に行った商品のデザインをネットで取り寄せて、手もとの工作機械で作らせてしまう、といったことも起こるかもしれない。

そんなことがすぐに大規模に起こるように言うつもりもなくて、原材料の調達や物流のことを考えると、ハードルは高い。経営的に考えても、それにまだまだ伸びるであろう新興国消費市場のことを考えると、いましばらく大量生産・大量消費パラダイムの方が強いのではないかとも思える。

それでもなお、パーソナル・ファブリケーションという考え方に魅力を感じるのは、それが、人々の創造性に具現化する手段を提供してくれる可能性を感じるからだ。さらに言うと、「デザイン」がデジタル化されることによって、「パーソナル」の壁を破って、デザインが共有され、進化していく「ソーシャル」なものになる可能性もありそうだ。そうなったら単なる技術変化を超えて文明のあり方に一石を投じて行くことになるだろう。

(掲載日:2010/06/21)