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2010.09.02

おかしらの宿題:そのエピソードとトラウマ|高木安雄(健康マネジメント研究科委員長)

人生は些末なエピソードの集積にすぎないといわれるが、今回のテーマである「おかしらの宿題」くらいエピソードとトラウマに満ちたものはない。今こうして書き始めているこの原稿も締め切りを過ぎてしまい、「しまった!急いでやらなくては!」と慌てて取り掛かっているくらいであり、朝起きて宿題をやっていないことに気がついて、慌ててやった小学生時代を思い出す。これが中学生、高校生ともなると、居直りの術を学んで、失敗した時のやり過ごし方を身につけて、人生を生きていけるようになる。
何度、母親に、「宿題やってから、遊びに行きなさい」と叱られたことか、人間の性分は幾つになっても変わらない。

小学生の低学年で掛け算の九九を覚える宿題が出た時のことを鮮明に覚えている。担任が男性の怖い先生だったからトラウマとなっているのかもしれないが、2の段から毎日、暗記して来て、翌日の算数の授業で覚えてきたかどうかを生徒が発表する宿題である。だんだん難しくなった6の段を覚える宿題の時、東映のチャンバラ映画が上映されていて、宿題の不安を抱えながらも映画を選択したのである。当時の映画は二本立てが当たり前であり、「中休みに宿題をやればよい」と都合よく考えたのは今と同じである。
しかし、映画を楽しんだら掛け算どころではなく、幸運にも翌日のことは全く記憶にないので、宿題発表では指されなかったらしい。映画館と掛け算の宿題だけが、トラウマとして残っている。どうやら楽しいことを邪魔するのが宿題の本性であり、宿題を出して生徒に嫌われるのは教員の宿命らしい。

それゆえに、教員にとっての宿題を考えさせるのが、今回のテーマの隠された意図なのだろう。教員だからということよりも、還暦をすぎた歳ともなると、自分に宿題を課して取り組み続けることは容易でない。叱ってくれる恩師や母親はすでになく、せいぜい研究者仲間の頑張りを見ながら、自分を鼓舞するしかない。
その時、自分の宿題をいちばん感じさせてくれるのは、本棚にあるまだ読んでいない本であり、「いつ読んでくれるのか?俺はもうご用済みかよ!」と厳しく問いかけてくる。学生時代にお金がなくて買えなかった本をサラリーマンになってようやく買えても、積読だけの懐かしいものがアチコチにある。今の研究とは直接関係なくても、今日の基盤を作ってくれたものにはちがいない。最先端の研究も大切だが、人生の宿題をどう片づけていくのか、本棚の本たちには感謝半分、済まなさ半分の気持ちでおり、宿題は依然として存在する。

(掲載日:2010/09/02)