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2010.12.16

ふと見渡すと|國領二郎(総合政策学部長)

新しい土地にご縁ができると、地名や由来に興味がわいてくる。どんな地にも、専門家や熱心な郷土史家の方々がいてネットに記事を出してくださっていて、あれこれ検索しながらたどるのが楽しい。必ずしも定説があるとは限らず、いろいろな説があって、何が本当なのか分からないこともあるのだが、想像が膨らんでかえって楽しかったりする。

SFCに勤務するようになるまで、おいしい豚肉のブランドくらいのイメージしかなかった、高座(こうざ)という地名が、律令時代に始まる由緒正しいものであって、高座郡といえば、昔は北は相模原から鵠沼沿海部まで伸びる広大な郡だったことも知った(地元のみなさん、常識だったらごめんなさい)。本当は「こうざ」と読むのではなくて、「たかくら」と呼ばれ、クラという言葉に「崖」という意味があったのだと記事に思い出させられると、境川(鎌倉郡と高座郡の境の川ということらしい)をジョギングしながら崖の上に見える高倉中学校に親近感がわく。

昔は高座郡を名乗っていた町々が次々市制を敷いて郡から離れていった中で、SFCの西側にある寒川町が唯一高座郡の名を冠して残っている。そこに相模一宮(いちのみや)である寒川神社があると知ると、東側の東京ばかり意識している普段の地理感覚が変わってくる。ちなみにウィキペディアによると寒川神社は「テレビ界では古くから『視聴率祈願の神社』として知られ、新番組開始前に視聴率獲得を祈願して参拝を行うテレビ関係者は後を絶たない」のだそうな。

寒川は相模川ぞいにある町で、ここへ来ると相模国を南北に縦断する相模川がいかに東国開発の要だったかが分かる。そして、今われわれが往来する鉄道や高速道路のほとんどが東京と関西を結ぶ東西方向に伸びているのに対して、昔は南北方向にも交流が盛んだった姿が見える。そんな目で周辺の地図を見ると、武蔵の国から武士がはせ参じたかまくらみちも南北方向だし、少し東側には、明治期に八王子に集積された生糸を輸出用に横浜に運んだ八王子街道「絹の道」が南北(正確に言うと東南-北西だが)に通っている。そんな歴史を知り、いま相模川には河川敷に圏央道が建設されている姿を見ると、相模から北へ向かっていた昔の姿の復活を予感させられる。

忙しさに追われていると通り過ぎてしまう日ごろの風景の中に、いろいろな歴史の物語が潜んでいて、それが今の時代の文脈になっている。ちょっと好奇心を持つと道をあるいても楽しい。

(掲載日:2010/12/16)