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2023.04.25

ひょっこり出てきたソ連の空気|メディアセンター所長/総合政策学部教授 廣瀬 陽子

昨年、母方の祖母が100歳で他界し、「実家じまい」をすることになった。私の私物が大量にあるので、捨てるものと引き取るものの確認に来いと言われて実家に行くと、確認すべき段ボール、紙袋が山積み...。気が遠くなったが、とりあえず始めると、それらからは次々と昔の面白いものが出てくる。写真、手紙、書類...。いちいち読んでしまい、思い出に耽ったりして、作業は一向に進まない。

そんななかで、小さい藁半紙の束がごそっと出てきた。かなり古い紙で見覚えのないものだ。そこにはロシア語が書いてあったので、母が私の私物だと思ったようだ。

なんと、その束は、全てソ連の1973年の「ベリョースカ」の領収書だった。「ベリョースカ」(ロシア語で「白樺」の意)とは、ソ連時代の外貨ショップだ。それは、主に外交団や外国の商社マンや観光客向けのお土産物や食料品を販売する国営の高級スーパーマーケットであった。ソ連で合法的に外貨が使えたのは、「ベリョースカ」だけであったことに加え、一般商店では何を買うにも行列が必須で、欲しいものが入手できないことも多かったとされるが、「ベリョースカ」ではほぼ何でも入手できたとされる。肉など普通の店では入手困難なものから、東芝製テレビなど西側の製品や食品なども揃っていたという。当初、「べリョースカ」で買い物ができたソ連国民は、高官や外交官、アスリートなどの特権階級だけだったが、次第に一般人も外貨を入手したり、ルーブルを「ベリョースカ」で使える金券に交換したりして、買い物をするようになったという。ペレストロイカ時代に、ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長/大統領が「特権階級との闘い」の中で「ベリョースカ」を閉鎖したため、ソ連末期にはそれらはすでになくなっていたようだ。だが、筆者がロシアなどに行き始めた頃に出来始めていたスーパーマーケット(注*)の初期のものは、「ベリョースカ」の跡地に出来ていたという話を聞いたことがあり、1990年代後半にはまだ数えるほどしかなかったスーパーマーケットに入ると、ここが「ベリョースカ」だったのかもしれないなと思ったものだった。

注*我々にとって一般的なカゴに商品を入れて、レジで会計をするようなスーパーマーケットはソ連にはなく、ソ連解体後もしばらくは、ソ連時代の「カッサ形式」の商店しかなかった。カッサとは日本のレジのことであり、カッサ形式での購入は大変だ。まず、店員に「あれが欲しい、これが欲しい」と告げる。店員は仕事熱心でないケースが多く、それを告げるのも大変だが、とにかくその店員は紙に数字などを書いて渡してくる。すると、その紙を持ってレジで会計をする。レジは大行列であることが多いのに、レジ係も客と喋っていたり、行列は延々と続く。ともあれ、会計を済ませると、その紙には会計済みを示すサインなどがなされるので、再びその紙を持って商品を担当する店員に見せると、やっと商品を渡してくれるという仕組みだ。客にはコミュニケーション能力と忍耐力が求められるが、ソ連解体後も2000年代前半までは旧ソ連で当たり前の会計方法だった。

さて、本題に戻ろう。何故そのような領収書があったのかと言えば、祖父が1972〜73年にソ連でプラント建設の監修に行っていたからだ。つまりその領収書は祖父のものだった。その領収書を見る限り、ブローチ、マトリョーシカなどお土産物が多く品名に書かれているので(もちろん手書き)、帰国前の大量のお土産購入の領収書だと思われる。

筆者はしばしば「何故、旧ソ連の研究を始めたのか?」と聞かれる。その問いに対し、高校生の頃にゴルバチョフのペレストロイカに感銘を受け、特に東欧革命に波及するような大きな国際変動が生まれたことに関心を持ったこと、そして1991年4月のゴルバチョフ初来日の際に、「日本の学生と語る」会に参加し、直接お会いした時に受けた衝撃、そしてその後のソ連解体による激動につよい関心を持ったことなどがきっかけとなった、という返答をしてきた。

しかし、この領収書を見て、祖父から聞いていた今はなきソ連の話が自分の研究の方向性に大きな影響を与えたのではないかと思えてきた。実家には、ソ連のお土産物がたくさんあり、祖父のロシア語教本などもたくさんあった。

祖父から聞くソ連の話は酷いものばかりだった。たとえば、ホテル(長期滞在でもホテル住まいを強いられたという。ソ連時代、モスクワには外国人用に壮大なホテルがいくつか建設されたが、祖父はその一つの「ウクライナホテル」に宿泊していた。長年、欧州の最高層ホテルの一つとされてきた。ソ連解体後にはラディソン・ロイヤル・ホテルになった)では、朝早く起きても、じゃがいもとヨーグルトしかなく、牛乳すら飲めなかったそうだ。そのため、筆者が2000年にアゼルバイジャンに留学すると祖父に伝えた時には「あんな、じゃがいもとヨーグルトしか食べられない国に行くな!」と言われたほどだ(アゼルバイジャンと祖父が過ごしたモスクワがあるロシアはもちろん別の国だが、祖父は、旧ソ連諸国は全て同じ状況だと思っていたに違いない)。

また、常にKGBに監視され、いつも誰かが後ろにいるような状態だったそうだ。レニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)に行きたいと言っても許されず、土日はいつもモスクワ動物園で時間を潰していたとも聞いていた。

空港では、税関の人が外国人の荷物から「これはソ連に持ち込めない」などと言って、通常、ソ連の人が入手できないようなものを手当たり次第取り上げ、私物にしてしまうことが問題となっていたそうだ。そのため、荷物チェックの際に、荷物の上に大量の男性向けカレンダー(現在はあまり見ない気がするが、昭和の頃は女性の水着のカレンダーなどがかなりたくさんあったと私自身も記憶しており、そのような類のものと思われる)を置いておく技を伝授されたそうだ。実行すると、「これはソ連の風紀を乱すものなので没収する」と、担当者がニヤッとして目配せし、他の荷物には一切手をつけず、見逃してくれたようだ。色々な処世術があったものである。

と、そのような祖父の話を思い出し、そもそも自分がペレストロイカに関心を持ったのも、祖父が不思議な国・ソ連の話を聞かせてくれていたからなのではないか、と今更ながらに思ったのだった。

突然出てきた50年前の領収書が、ソ連の空気と共に、色々な思い出をよみがえらせてくれた。そういうわけで、私の「実家じまい」は、全く終わりそうな予感がしないが、自分の研究の原点を思いがけず発見できたのは興味深い出来事であった。

廣瀬 陽子 メディアセンター所長/総合政策学部教授 教員プロフィール