MENU
Magazine
2008.12.24

オコナー判事との旅|阿川尚之(総合政策学部長)

アメリカ合衆国最高裁判所前判事サンドラ・デイ・オコナー女史が、SFCにやってきた。12月10日と11日ゲストハウスで2泊し、授業への参加、大教室での講演、鎌倉遠足、茶道部のお点前見学、学部生・高校生との交流など、精力的にスケジュールをこなした。12月12日三田で安西塾長から慶應義塾大学の名誉博士号を授与され、引き続き記念講演を行った。

オコナー判事の招聘は、慶應義塾創立150年記念行事の一つ「SFC世界の先導者招聘プログラム」を通じたものだ。150年を機に、SFCでも何か意義のあることをやろう。知恵をしぼって考えついたのが、世界の指導者をSFCへ招く計画である。一流の人物と寝食を共にし、一緒に勉強をし、福澤先生の言われた人間(じんかん)交際をしたら、大きな影響を受けるだろう。そう提案して予算がつき、親交のあるオコナー判事に声をかけて、来日が実現した。

オコナーさんに初めて会ったのは、1990年の春である。私はワシントンの法律事務所で新米ロイヤーとして働いていた。たまたま「クレア」という女性雑誌の編集長から「アメリカで一番有名な女性にインタビューしてくれないか」と頼まれ、引き受けたものの、誰がいいだろうかと思案する。その頃、妊娠中絶の問題をめぐってアメリカの国論が分裂し、その合憲性をめぐって最高裁が近く判断を下すことになっていた。特に女性最高裁判事としてその投票に全米の注目が集まっていたのが、オコナー判事である。つてを頼って要望を提出したら、意外にもすぐに引き受けてくれた。

最高裁判事のような重要人物をインタビューした経験は、それまで一度もない。これは予習をせねばなるまい。そう思ってオコナー判事について書かれた新聞や雑誌の記事を片っ端から読んだ。判事がアリゾナ州南東部の広い牧場で育ったこと、幼いころから馬に乗り牧場の仕事を手伝うなど活発な少女であったこと。そんなことがわかった。判事を理解するには、この牧場を知る必要がありそうだ。直観的にそう思い、編集長から許可を得て、レイジーBという名の牧場を訪れた。

ワシントンからアリゾナ州フェニックスへ飛び、ニューヨーク在住のカメラマン、トシ・カザマさんと合流、翌朝ツーソンへ飛ぶ。そこからさらに車で延々200キロ。途方もなく天地が広い。乾燥した荒れ地が続く。背の低い灌木が、地表へしがみつくようにしてまだらに生えている。牧場ではオコナー判事の弟さんであるデイ氏が、テンガロン・ハットにブーツのいでたちで迎えてくれた。我々が近づくと、牛の群れが一斉に振り返り、不思議そうな眼で見つめる。牧場は東京都23区とほぼ同じ広さだが、そこに5軒しか家がない。庭先に軽飛行機が一機停めてあって、誰のものかデイさんに尋ねたら「僕のだよ、飛ぶかい」と言って我々を乗せ、牧場の上空を一周してくれた。機上でデイさんが話に夢中になるたびに、失速警報器がビービー鳴る。牧場を辞去するころ、日はすっかり暮れて暗くなり、夜空は満天の星である。周りの丘でコヨーテが月に向かって吠えていた。

アリゾナからワシントンへ戻って数日後、私とカザマさんは最高裁を訪れた。審理がない日なら誰でも最高裁の法廷に入れるが、判事が執務室を構える一角は立ち入り禁止である。廷吏に許され裁判所の奥に足を踏み入れる。まるで神殿の奥へ入っていくようだ。オコナー判事の執務室へ通され、しばらく待たされた。辺りは物音ひとつせず、2人とも緊張の極に達している。

「ミスター・アガワ」。ふいに背後で私の名前が呼ばれた。そちらを振り向くと、写真で見たオコナー判事本人がこちらを向いて立っている。秘書さんが判事の部屋に通してくれるのかと思ったら、判事自から我々を迎えに出てこられた。大きな目でじっと私たちを見つめ、微笑んでいる。それ以上何も言わない。私が口を開くのを待っているようだ。

「オコナー判事、お目にかかれて光栄です。2日前、レイジーBへ行って参りました。カメラマンのカザマさんと一緒に」

一瞬、判事が驚き、同時にとても嬉しそうな表情を見せる。

「まあ、本当に。あんな遠いところまで。それはわざわざ」

緊張が一度に溶け、インタビューはうまくいった。判事は私の目をじっと見て、ゆっくりと、しかし的確な言葉を選んで、話した。最後には私とカザマさんに、「それであなたたちのことを聞かせてくださいな」と言って質問を投げかけ、まるで判事からインタビューを受けているようだった。

そのときから今まで約18年。オコナー判事とは長いあいだ会う機会がなかったけれど、たまに手紙を送ると、必ず返事をくれた。判事が重要な判決文を書くたびに、全米で大きく報道される。中道派である彼女の票がしばしば最高裁判決の行方を決めるので、アメリカでもっとも影響力の強い女性と言われた。私はその後東京へ戻ってロイヤーの仕事を続け、やがてSFCの教員になる。

2002年9月、思いがけなく在米日本大使館で働くことになり、加藤大使夫妻がオコナー判事とバードウォッチングの仲間であることを知った。昔判事にインタビューしたことを大使に伝えると、「じゃあ今度オコナー判事を食事にお招きするとき、君もいらっしゃい」と言われ、ある晩仕事をすませたあと、遅れて大使公邸での夕食会に顔を出した。テーブルに向かう客のなかに、なつかしいオコナー判事がおられた。

「判事、覚えておられないかもしれませんが、10年ほど前インタビューをした阿川といいます」。背後から声をかけると、判事は食事の手を安め、体をひねって手を差し出し、「アガワさん、もちろん覚えていますよ。再会できてとっても嬉しいわ」と、私の目をしっかり見つめ、微笑んで、手を握る。それから「この人はわざわざ私の故郷の牧場、レイジーBまででかけてくださったのよ」と、周囲の人たちに私を紹介した。

在米大使館勤務中、判事には何度か会う機会があった。一度最高裁に招かれ、口頭弁論を傍聴させてもらった。大使館の行事にときどき顔を出された。お目にかかるときはいつも、私の目をしっかりと見つめ微笑まれた。その目には強さと優しさが共存しているようだった。

今回のSFC滞在中も同じである。12月9日、成田空港に迎えに出て再会したとき。SFCへ向かう朝、ホテルのロビーで集合したとき。鎌倉から帰ってきた判事をゲストハウスで迎えたとき。そこにはいつも彼女の強くて優しい目があった。ちなみに学生やその他の人に向かって、相変わらず「この学部長さんはね、私の故郷の牧場までわざわざでかけていったのよ」と言われる。まるで、レイジーBの大切な思い出を、ほんの少し私に分けてくれているようだった。

少し離れたところから見ていると、食事中、会談中、あるいは講演の最中、相手がだれであろうとその目をじっと見つめ、よく話を聞き、おだやかに、大切に言葉を選んで、しかしときどき思いがけないユーモアも交えて、話された。相手が要人でも話が冗長でおもしろくないときには、会談のあと私に小声で「あの人話が長いわね」などとばっさり評価する。小気味がいい。最高裁法廷で口頭弁論に立ちこの判事から質問を受けたら、震え上がるだろう。毅然としているが、それでいてやさしい。食事中、学生が忙しく立ち働いているのを見るや、「あなた、ここにお座りなさい、きちんと食べなさい」と、命令する。

この18年間、世界で、日本で、アメリカで、いろいろなことがあった。そしてオコナー判事にもまた変化があった。95年には同僚で親友のレンクイスト最高裁首席判事が亡くなる。最高裁の広い階段に立って棺を見送るオコナー判事が、さめざめと泣いているのを、たまたまワシントンに滞在していてテレビで見た。ご主人がアルツハイマー病にかかり、その世話に専念するため2006年1月、25年近く務めた最高裁判事の職を辞した。初めて会ったとき、初孫ができたと喜んで話してくれた、そのコートニーという女の子が、現在自らが総長をつとめるウィリアム・アンド・マリー大学の1年生だという。判事自身も少しお年を召して、階段を降りるときや椅子から立ち上がる時、手を差し伸べるようにした。歳月は流れる。

12月14日、雨が降り寒い日曜日、オコナー判事は日本をあとにしてアリゾナへ帰られた。ホテルのロビーで別れるとき、判事は私をその大きな手で抱いて、「とてもよい滞在だったわ、完璧よ、ありがとう」。なんと言えばいいのかわからないので、「もうありがとうは繰り返しません。お別れしなくてはならなのが、さびしい」と口にすると、「私もよ」と肩を叩きながら言われた。ちょっと涙がこぼれそうになった。

何人かの学生は、判事と別れがたくて成田まで送りに行った。私は電車で家に帰った。湘南電車の対面席で一緒に座ったのは、見知らぬ親子の4人連れである。東北のどこかに里帰りしての帰りだろう。乳呑児を抱いた若いお母さんとお父さんが、楽しそうに旅行の思い出を語り合っている。その横で旅の疲れがでたのか、2歳ぐらいの坊やがこくりこくりし、時々頭を壁にぶつける。窓の桟にお父さんの大きな黒い傘、お母さんの傘、坊やの小さな傘がかけてあり、電車が揺れるたびに3本の傘が並んで揺れる。ふとこの坊やに、「おじさんはね、いまオコナーさんってすてきな人と別れてきたんだよ」と話しかけたいように思ったけれど、びっくりするだけだろうからやめた。

(掲載日:2008/12/24)