編者対談

"問いを持つ"ということ ─ 参加者との対話

参加者1 高校生です。質問というか、お考えを聞きたいと思います。研究者の皆さんは、数字の何に人を感じるとか、データの中のどこに人がいると考えているのでしょうか。

琴坂 一つ関係するかもしれない話をすると、経営学の近年の研究のキーワードとしてエモーション(感情)とテンポラリティ(一時性)という言葉があります。経営組織というのは、同じデータとか同じ仕組みを前提としても、ときに、ロジックが飛ぶような意思決定をすることがあります。それがなぜ起きるのかを突き詰めていくと、人の感情とか感性がヒントになります。感情やそれに基づく意思決定の傾向は、一時的、すなわち、ちょっとしたきっかけで、分単位・秒単位で変わる可能性があります。こうしたことをもっと探求するべきであろうという問題意識が生まれています。結局、人間は、どれだけデータに基づいて客観的にふるまおうとしても、実際は主観的な判断をしている可能性もあります。人間同士が集まって集団をつくり、集団としての判断をするとき、感情や一時性は無視できません。最近はこうした議論にも興味関心をもって経営の探求をしています。

参加者1 数字だけじゃなく人を感じるということは、学問に共通しているものだと思っています。僕の好きな数学者の岡潔(1901~1978)の本を読んだら、最初の方に「学問から人が消えている」と言っているのですが、「それはもしかしたら、科学から人を取り除くことを目指しているのかも」とも言っていて、確かにそうだと思いました。でも、本当はもっと複雑であるだろうし、先ほどの感情とか感性というのは大事な視点だと思いました。

和田 別の方向から話すと、例えばこういうことなんです。経済学で減税を考えるとしましょう。税金が安くなる。そのときに、みんなが消費をどう変えるかという話ですが、モデルとしての減税思考というのは、みんなが消費をして、わあ嬉しいと喜んで、需要が増える、というものです。けれど、将来を含めて考えると、合理的な人は消費を増やしません。なぜかというと、将来増税されるのが分かっているからです。減税はいずれ増税で補填されるので、今は消費を増やさないのが合理的判断です。だけど実際には、みんながみんな合理的かどうか分かりません。そうした場合に注目されるのは、消費者全体の何割ぐらいの人が合理的に行動していて、何割ぐらいが合理的じゃないかということです。それを国際比較すると、例えば、アメリカ人に比べると日本人には実は合理的じゃない人が多いことが分かります。お金が増えた、嬉しい、じゃあ使っちゃおう、という人は経済学の意味においては合理的でありません。そういう風にデータを見ていると、意外に合理的な人は少ないことが分かるのも、データの中に人を感じるということの一つの現れといえると思います。

山本 私は大学院の政策・メディア研究科でアカデミックプロジェクトの「現代社会・文化への人文学的アプローチ」という科目を担当していて、そこでは人文学系の複数の先生と学生が一緒にいろいろなテーマに取り組みながら、ディスカッションをしています。その経験を踏まえて言うと、今は教育学や社会学など、多くの分野でデータの収集と分析を数値化して行う、いわゆる定量的な研究が増えてきていますが、一方で、具体的な事例を重視し、言葉や行動のような数値化しにくい問いを探求していく質的な研究も進化してきていると思います。実際、質的な研究を志向する学生は、SFCにも多いという印象です。例えば、ひきこもりの問題や障害者の問題などについて、当事者と非常に親密な対話を重ねながら情報をとってまとめていく、考察していくというタイプの研究をやっている学生がいます。学問全般の状況としても質的な研究は増えていると感じます。こうした中で今、重要なのは質的な研究と定量的な研究をどうつなげるか、ということではないでしょうか。「個」や「人」を重視をするのは重要なことだと共感しますが、質的な研究に傾倒し過ぎるのも望ましいこととはいえません。質的な研究をいかに社会の中で共有できる「知」にしていくのかといったときに、質的な研究と定量的な研究がどうやってお互いに補完し合うかというバランスが、非常に重要なのだと思います。

参加者1 ありがとうございます。やはり、リアリティも主観的なものだと思うので、誰のリアリティなのかということもそうですし、見る側もちゃんとそれを考えて、どこに人間があるのかをちゃんと捉えるために、もう少し踏み込んでデータを味わう必要性があるんだと思いました。

加茂 そうですね。誰のリアリティかは結構大切ですね。例えば、国際政治学で、かつて「社会は経済発展すると民主化の道を歩む」「民主的な国家は戦争をしない」グローバリゼーションと相互依存によって世界の平和は保たれるという考え方が有力でした。このモデルを踏まえて、先進国は発展途上国への経済援助を進めてきました。ただし、その考え方は西側先進国の研究者の、そして彼らの過去の経験則から導き出されたものです。ですが実際には、必ずしも経済発展が民主化を導き出すわけではなく、経済的な相互依存が平和を保障するわけではない。発展途上国の側からすると、政治的自由化が決して目指されるべき姿ではないという考えもあるわけです。やはり、誰のリアリティかを考えなければいけない。その意味でも人間を見ることは重要です。

参加者2 私は2020年にSFCを卒業し、今は日系企業で働いています。先ほど加茂先生がおっしゃっていたリアリティというのは、まさに福沢諭吉先生の実学の精神に通じているように思いました。私が今、働いていて感じるのは、学問というのはすごく崇高だということです。実務の世界に入ると、やはり泥臭いところもあって、企画書なども受けがよければ通るみたいなことが起こるのは、学問とは違うと感じています。SFCの卒業生が実際に企業に入って働く際に、そういうギャップを感じる場合もあるように思いますが、その辺りを先生方はどうお考えになるのか伺いたいです。

琴坂 私は理不尽なことにも何か背景に理由があるはずだ、少なくともそれは説明できるはずだという、確信めいた信念を持っています。理不尽に思うことはありますよね、おかしいなと。その、自分から見るとおかしいことをやっている人の立場にもし自分を置いたら、自分も同じことをしてしまうのではないかという前提で、物事を見るようにしています。

そういう確信を持った状態で世界を広げて、客観的にいろいろなものを見ることが大切です。例えば、経営戦略が論理性や潜在的な経済価値だけでは決まらないといった理不尽については、過去の日経ビジネスや東洋経済などに有象無象に参考になるエピソードが転がっています。日本経済新聞の『私の履歴書』を見ても、NewsPicksの記事を見ても、人が人として動いて、その結果としての経営が動いていることが、一見すると理不尽に見える結果につながっていることが分かります。大量の事情に触れることで、理不尽を論理的に理解する。それが正常で当たり前だと。僕らは学問として、可能な限り客観的に見るわけです。統計的にどうなのか、全体感がどうなのか、理不尽の背景にはどんな理由があるのかを考える。理不尽にはそれなりの理屈があるはずだと考えると、少し楽になると思います(笑)。

参加者3 公務員をしています。冒頭で「問題発見、問題解決はとても大事だけれど、なかなか難しい」とか、「問いを立てるのはすごく重要だけれど難しい」といった話題が出ていたと思いますが、こうした着眼点が非常にいいと思いました。私もそういうことをいつも思っていたので、ねらいとして素晴らしいと思いながら聞きました。一方で、ビジネス誌で学者や経営者の対談記事などを読むと、日本の経営者は論理的思考ができないように思います。その結果として、今の日本全体の停滞が起きていると。それは、問いを立てることができないということだと思うのですが、その原因は一体何だとお考えでしょうか。それと、SFCの学生はきっと、問いを立てることをやっていると思うのですが、どういう風にそれを将来的に活かせるとお考えでしょうか。その辺を伺いたいです。

琴坂 一つ私が申し上げたいことは、私は職責柄、総合商社やメガバンク、自動車会社などの経営陣の方々と対話をして、一緒に問題解決をするのですが、彼らはしっかりと考え、合理性を持ち、高い倫理観と責任感をもっているということです。彼らの能力が足りないとか劣っていることの結果としてこうなっているのではなくて、彼らが見ているものや彼らが大切にしていたものが、もしかしたら時代の方向性とのミスマッチという不幸な結果となり、現状が生まれているという話です。ですから、一概にバッサリとは切れません。なぜそのミスマッチが生まれたのか、それを冷静に分析して、その学びから未来に向かうことが重要です。

清水 SFCは幸いにして、学生が問いを持って入ってくるキャンパスだと思います。僕らがするのは、それが自分が思い込んでいるものではなくて、正しい問題意識なのかということを、繰り返し繰り返し問うていくということです。そこでみんなが苦しむんですね。自分が持っていた元々の思い込みと現実が、少しずつ違っていることが分かってくるところで。でも、そこをさらに進んでいったら世の中で役に立つし、自分自身を救ってくれるし、自分たちがやっていて面白いと思えるような研究になっていきます。どの研究会でも、基本的にはそうしたことをされているのだと思います。

加茂 ありがとうございました。今日、このセッションを使って、「総合政策学とは何か」「総合政策学はこれからどういう方向へ向かっていくのか」を皆さんと一緒に議論できたことは、大変有意義なことでした。登壇している教員とともに、皆様に本当にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。