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おかしら日記
2021.04.20

世界とデコード|環境情報学部長 脇田 玲

先日、ある選挙に参加した。選挙というよりは、ローマ教皇を選出するコンクラーベのような、ある種の儀式のようにも感じられた。

思えば、世の中にはさまざまな選挙がある。若い頃に経験する生徒会長やサークルの代表といった身近なものから、市長、知事、国会議員といった国民の生活に関わるものまで様々である。最近ではアイドルまで総選挙をやっている。この国は一年中選挙で盛り上がっているといってもよいだろう。

選挙の最終的なアウトプットは候補者の得票数や当選者といった結果なのだが、そこには様々な意味が隠れているように感じる。たくさんの票を獲得したということはそれだけの支持があるということだが、一方で、大方の予想に反して得票数が少なかったということも、また様々な意味が含まれている。

そこまでは、外から傍観していても何となく想像できることだが、実際に投票する人や票集めに奔走した人はその数値や結果からより深い多様な意味をデコードすることができる。一位と二位の関係性に何かを見出す人もいれば、かつて圏外だった人の復活に何かを見出す人もいる。外野が分析していることと、中の人が見ている世界はかなり違うもののように感じられる。

これは選挙に限定されることではなく、世界のさまざまな事物にも言えることだ。

街で目に入ってくる標識やポスター、壁の色や形、制限時速、建築物の構造、グラフィティやミューラル。それらすべてにメッセージが込められていて、表層だけを見ていると「ふーんそうなんだ」とか「めんどくさいな」などと感じられるものあっても、その意味を抽出する何かを持ち合わせた人にとっては、なるほどと思えるものが潜んでいる。

さらに、最近では、新型コロナウイルス感染症やデジタルツインの話もあって、様々な貴重な数値が公開されているが、それらもただ数字が大きい小さいというレベルで見るのではなく、その中に隠された情報をどうやったら抽出できるのか、データを自分で処理して考えてみると、ひょっとすると意外なものを取り出すことができるだろうし、知的に興味深い世界が広がるだろう。

つまり、情報とはその意味を知っている人だけが抽出できるものなのだ。対象から情報を引き出せるかどうかはその人次第。それを引き出すためのキーとなるフレームや文脈やモデルを共有していないと、情報はそこに存在しないに等しい。

そのような視点で、世界を見てみると、なかなか面白いと思う。


脇田玲 環境情報学部長/教授 教員プロフィール