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おかしら日記
2020.01.28

Daft Punkの映画を見て考えたこと|環境情報学部長 脇田 玲

研究会の学生と一緒に映画を見ることが多い。小津やリーフェンシュタールを観ては、時代を超える創造性について考え、キューブリックやタルコフスキーの宇宙映画から解釈の多様性を学ぶ。と書くと、カッコよく聞こえるが、私の趣味に学生が付き合ってくれてるだけかもしれない。五社英雄の任侠映画を一緒に見た時は、学生がドン引きしているのがよくわかった。

ある日の研究会で、Daft Punkの『Electroma』という映画を見た。ミュージシャンが監督した作品だからプロモーションムービーかと思ったら、これが素晴らしいロードムービーだった。

この作品は音楽が重要な役割を果たしているのだけど、その中にDaft Punkの曲はない。トッド・ラングレン、ブライアン・イーノ、カーティス・メイフィールドなど、シーンに即して主人公の心情を巧みにあぶり出す選曲が印象的だ。

セリフも一つもない。要約してしまえば3行で済むようなストーリーだが、一つ一つのシーンの「触感」や「味」をひたすら丁寧に描いている。キューブリックを思わせる一点透視のカメラアングル、美しい風景と音楽の一体感、これらが作り出すロードムービー特有の没入感。リリカルでエモーショナルな音と映像に浸るにはこれ以上の作品はないと思う。

でも、この映画の魅力はそこだけではない。アーティストから見た世の中、組織、コミュニティ。その中にあって、感じずにいられない違和感。世の中おかしなことばかりなのに、なぜみんな気にならずに平然と暮らしているのか?社会の中で異端や異物として扱われるアーティストの批評的な視点そのものが丹念に描かれているのだ。

舞台はロボットが暮らす社会。主人公(Daft Punkの二人)ももちろんロボットで、彼らは人間になることを夢見ている。努力の末についに人間になった二人は街を闊歩する。その時の彼らの視線がとても印象的で批評的なのだ。しかし、街の人々は冷たい視線を送り返す。そして、次第に彼らを排除しようとして、街中を追いかけ回す。ロボット社会の中で人間になろうとした主人公は、ふつうの人々(ふつうのロボット)によって街を追い出され、途方に暮れて砂漠をさまよい、悲惨な最期に向けて行進し続ける。

学生に教えてもらったのだが、作品名の『Electroma』の"oma"は腫瘍という意味らしい。つまり、この作品名を訳すと「電子的腫瘍」になる。"Electro"の部分はロボット社会であったり、彼らの音楽ジャンルがエレクトロニカと呼ばれるところに由来するのだろう。どのような組織でも異物は排除されるのだろうか。異端児に安住の地はないのだろうか。

物語の最後、そのひどく可哀想な結末に、研究会のメンバー全員がしんみりした気持ちになっていた。脇田研の学生には異端児が多い。おそらくアートをテーマにしていることと関係があると思うのだけど、SFCの中で居場所のない人が集まってくる。彼らはこの作品を見てどう感じたのだろうか。その晩は新規メンバーの歓迎会だったけど、学部長の仕事が急に入って、会に出られなかった。研究室に集まってくれた学生たち、社会に違和感を感じる若き異端児、彼らと映画の感想を交換しあう話の続きをしたかった。
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そんな映画を見た今学期のはじめから、もう4ヶ月が経った。学部長の仕事も4ヶ月目。告白するが、新しい立場で、新しいコミュニティの中で、映画の中のDaft Punkさながら、違和感を感じずにいられない日々を過ごしている。とても大切だと思うことを発言すれば、なぜそんなことを言うの?という顔をされるし、生まれて初めて合意形成という名の壁と格闘している。

まあ、そのような人間が学部長をしているのだから、ふつうになれない学生諸君はくよくよせずに前を向いてほしい。そして自分の中の違和感を大切にして、研究や創作と向き合ってほしい。私はそんな異端の学生を全力で応援したい。

P.S. 先週の診察で5年間闘病してきた悪性腫瘍の完治を告げられた。私の中の腫瘍は消え去った(と願っている)が、私という存在や生き方は変わることはない。

<参考ページ>
初監督作品『ダフトパンク エレクトロマ』日本上陸!(BARKS掲載記事)

Wikipedia :Daft Punk Electroma


脇田玲 環境情報学部長/教授 教員プロフィール