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おかしら日記
2012.06.14

東京オリンピックのこと|國領二郎(総合政策学部長)

1964年だから、5才になりたてのころだったと思う。他の記憶がそれほどあるわけではないのだが、東京オリンピックのことは鮮烈に覚えている。親や近所のお姉さんたちに手を引かれて青山通りの赤坂総合支所があるあたりに聖火ランナーを見に行った。実は聖火ランナー自体は人だかりの合間の視界をあっと言う間に通過してしまって、それほど印象に残っていない。それよりも途中で、グリコのキャラメルを買ってもらって、わくわくしながらおまけの小箱を開けたら、やはりオリンピックの絵が入っていたのを憶えている。この「グリコのおまけ」というのは、日本のマーケティングの歴史に残る大変なインパクトあるもので、このエピソードは日本中がオリンピック一色だったことを物語っている。そも、このころは、まだ「三丁目の夕日」のころだったので、キャラメルを買ってもらうということ自体が子供としては画期的出来事で、オリンピックがあったから起こったありがたい出来事だった。

同じ日だったのだろうと思うが、家に戻って、抜けるような青空をブルーインパルスが通過して、空に五色の煙でオリンピックの五輪を描いて見せてくれたのも鮮烈に記憶している。当時は、わけも分からず日本中が沸き立っているのをぼんやり感じていたわけだが、第二次世界大戦に敗戦し、講和条約が発効してから12年しかたっていない、貧しく孤立していた日本が世界中から選手を迎え入れ、ジェット戦闘機を飛ばして、世界的なイベントの開始を告げたわけで、歴史の新局面がこの時に始まったと言っていい。

後になっていろいろ技術の歴史を見るようになって、オリンピックをめがけてありとあらゆる技術開発を行っていたことが分かる。新幹線も、首都高速道路もオリンピックに間に合わせるために構築された。私の記憶で一番古いものの一つは、1963年にケネディ大統領の暗殺ニュースが衛星中継で日本に流れてきて、大人たちが大騒ぎしていた風景なのだが、今にして思えば、それもオリンピックの世界配信をするために衛星中継を準備していたさ中のできごとだった。自分の専門に少し近いところでは、東京オリンピックの各競技場の結果の集約をオンラインでつないで行ったのが、日本のオンラインコンピューティングの夜明けだった。その経験と技術で、翌1965年国鉄(いまのJRですね)のマルス(つまりみどりの窓口システム)が稼働している。銀行のオンライン化も進んだ。

そんな社会全体を大きく牽引するオリンピックに、SFCから既に立石諒君、土居愛実君、山縣亮太君の3名の出場が決定していて、さらに出場可能性が高い在学生がいる。卒業生では2010年に卒業した横田真人君も出場が決まった。慶應義塾全体を見渡すと、ほかに文学部の三宅諒君、そして経済学部卒業生の法華津寛君の出場が決まっている。オリンピックは出場できるだけでも、大変な精進と力が必要なわけで、心から敬意を表したいし、活躍を祈りたい。時代は変わっても、オリンピックは変わらず人の心に希望の灯りをともしてくれる。皆で応援しましょう。

(掲載日:2012/06/14)