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SFCスピリッツ
2006.11.22

崖っぷちのジャーナリスト

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崖っぷちのジャーナリスト

金子寛人さん
北京支局特派員時代記者会見の
質疑応答において発言する筆者
(2003年8月撮影)
金子寛人さん
日経BP社 日経パソコン編集 記者、1999年環境情報学部卒業

記者会見に行くと、いつも最前列の席に座る。会見が始まると、登壇する会社首脳陣のスピーチを聞きながら表情を窺い、写真を撮り、疑問点を整理する。そして会見の最後の10分間、質疑応答の時間に勝負を懸ける。「日経パソコンの金子と申します。先ほどのご説明ですが――」。

1999年の入社以来、情報・通信・電機・電子といったハイテク業界を専門に、記者として活動してきた。この間、報道機関をめぐる状況は厳しさを増している。

例えば、メーカー自身による広報が充実し、公式の発表資料が記者会見とほぼ同時刻に、メーカーや東京証券取引所のWebサイトで見られるようになった。最近では、記者会見の模様をリアルタイムにストリーミング配信する企業も現れ始めた。会見が終わってほどなくすれば、各メディアの記事が次々にWebサイトにオンエアされる。通信社に始まり、新聞社、テレビ、Webニュース専門会社とさまざまである。Googleニュースで検索すれば、各社の記事を見比べながら理解を深められる。新製品の発表であれば、家電量販店のWebサイトに行けば、価格と入荷時期も一目瞭然だ。

余計なことを考えなければ、記事を量産することなどたやすい。発表資料をコピー&ペーストすれば、もしくは記者会見の説明内容を文字起こしすれば良いのだから。しかし、メーカーの発表資料と異なる、専門誌ならではの付加価値を求めるならば、単純な記事の量産は、媒体の価値を落とすことに等しい。雑誌を開いてページをめくってもらい、あるいはWebサイトで見出しをクリックしてもらい、そして読者に「参考になった」と感じてもらうには、日経パソコンにしか書けない、広い視座と深い分析で差異化するほかない。

その手段の1つとして欠かせないのが、冒頭の質疑応答である。マイクを握って登壇者に質問をぶつける。そして回答を聞き、メモを取りながら、その表情や語気、会場の空気、登壇者同士のひそひそ話の様子までを読み取っていく。発表資料やスピーチで触れられていない貴重な記事のかけらを、そこから拾える。

晴れのお披露目の場にふさわしくない、厳しい質問を投げかけることもしばしばある。当然、露骨に嫌な顔をしたり、怒り出す登壇者もいる。それでも厳しい質問をするのは、良い面と悪い面の両方を踏まえなければ、発表内容に対して十分な理解を得たとは言えないからである。ひいては、専門誌の記事を読みたいと思ってくれる(かつ、書店売りでなく年間定期購読制を採っている日経パソコンの場合は、1〜3年分の購読料金を前払いしてくれている)読者の期待に応えられないと思うからである。

そしてもう1つ、公開の場である記者会見では、登壇者は逃げようがない。質問に答えなかったり、ごまかそうとすれば、「質問に正対する回答を示さなかった」というのが情報になる。

先方に逃げ道がないのと同様に、自分にも逃げ道はない。記者会見に出席する記者は、少なくとも10人、多ければ500人を超える。その中で媒体名と自分の名前を名乗って質問するのだから、的外れなことを聞けば失笑を買うし、限られた質疑応答の時間を無駄にしてしまい、他の記者たちに迷惑をかける。また、批判的ではあっても、何カ月も何年も開発に携わってきた、開発現場の技術者たちの尊厳をいたずらに傷つけてはいけない。

だから、記者会見には万全の態勢で臨む。記者会見の案内が届いた段階で、概要に目を通し、メーカーの戦略や要素技術、競合他社の動向などを調べる。前日の夜からあれこれ考えをめぐらし、質疑応答で何を聞こうかリストアップしていく。会場に着いて資料をめくりながら、そして開会してスピーチを聞きながら、何を聞けば最も効果的かを考え質問を絞り込んでいく。

もちろん、最初からこのスタイルを確立できていたわけではない。登壇者の揚げ足を取るような、建設的でない批判をぶつけ、先輩記者からお叱りを受けたこともある。「あの記者、変な質問してたよな」と、他の記者から笑いものにされたこともある。それでも何とか少しずつ成長し、今では厳しい質問にも真摯に応えてくれるメーカー幹部の方も増えてきて、信頼関係が醸成されつつある。年に何回かは会心の記事を書けるようにもなってきた。それでもまだ、何日も考え抜き、温め続けてきた質問が空回りに終わることも多い。修練の道は長そうだ。

湘南藤沢高等部、環境情報学部と7年間を過ごしたSFCでの経験は、今の仕事に大いに生きている。言語学や社会学をメインに勉強しながらも、マクロ経済や会計、法律、政治学、情報処理、認知科学、人口問題など多岐にわたる学問領域に触れられたことが、取材の間口を広げるのに役立っている。高校3年から大学卒業まで続けた中国語は、2003年に北京支局を開設する際、初の特派員に抜擢されるという形で生かされ、帰国した今でも中華圏の取材に欠かせないものとなっている。

教員、職員、他の塾生など、色々な人から多くのことを学んだが、思い出深いことを2つ挙げておきたい。1つは1994年、高校3年の夏、新聞部に所属して学校新聞作りにいそしんでいたときのことだ。顧問の林弘之氏から「情報の対義語は事件である」という教えを受けた。「情報」「事件」とも、ここでは一般的な意味とは異なる用法で使っている。再現性を軸として、それがあるものとないものという意味である。客観的、定量的で、誰が見ても誤解のない情報も大事ではあるけれども、その瞬間、その場所に居合わせて、そこで見て聞いたこと、ひょっとしたら誰も気付かず、永久に忘れ去られてしまうかもしれない微かなできごとのなかに、光を当てるべきニュースのかけらが眠っているかもしれない。そこに気付けるか否かは記者の力量次第であり、常に心を研ぎ澄ませていないと、その微かな兆候をつかみ損ねてしまう。そうした、二度と失われてしまうかもしれない「事件」に光を当てられる記者にこそ存在価値がある、と教えられた。この教えを受けてから既に10年以上が経過したが、今もってこの教えは、ジャーナリストたる自分の原点として、深く心に刻まれている。

もう1つは、情報の送り手として言葉に魂を込めることの重要さである。1998年、大学4年の秋、授業の一環で映画評論家の淀川長治氏の講演会がSFC で催された。自分は音像工房という学生団体に所属し、講演の裏方業務を手伝っていた。当時89歳となっていた淀川氏は、医師の同行のもと、点滴を打ちながら車椅子で楽屋入りした。既にマイクを握る体力もなく、胸元にピンマイクを付けての登壇となった。600人収容のΘ館は立ち見が出るほどに学生があふれていたが、淀川氏の第一声を聞いた途端、みな一斉に静まりかえってしまった。かすれて弱った声は、テレビでおなじみの淀川節とはほど遠いものだった。会場は通常よりスピーカーを増設していたというのに、耳を凝らしていても聴き取りにくいほどに細っていたのだった。それでも淀川氏の声は、映画の話を始めると張りが出てきて、表情も豊かになった。当時の注目作の名を挙げつつ、「あんなひどい映画はない。最悪だ」と毒づいてもみせた。

亡くなる4週間前、淀川氏は映画の魅力とそこに懸ける自らの思いを、医師の反対を押し切り、自らの命を懸けてまで、600人超の聴衆が気圧されるほどの勢いで伝えたのだ。では自分はどうか。魂を込めて伝えられる何かを身につけられるか。たとえ命尽きようとも、ジャーナリストとしての本分を全うできるか。今でも考えさせられる。

卒業して7年半、ようやく20代が終わろうとしている。究めるべき道は、いまだ長く遠い。今日もまた、崖っぷちに自分を追い込みながら、記者会見に臨む。

「日経パソコン」ウェブサイト
http://pc.nikkeibp.co.jp/
日経BP社ウェブサイト
http://corporate.nikkeibp.co.jp/

(掲載日:2006/11/22)